昭和40年01月11日 朝の御理解
いよいよ本格的な寒さがやって参りましたようでございます。今朝なんか、しみじみと寒さを感じます。外は木枯らしが吹きすさんで、そして、みぞれまじりのおしめりが、例えば、よしあっておりましても、部屋の中にあかあかと暖炉が燃え続けておる。何とも言えん情景ですね。外は寒い。木枯らしが吹きすさんでおる。けれども、部屋の中には、あかあかと暖炉が燃え続けておる。しみじみと寒い、という、そういう冬の日にもですね、暖かく過ごせれるおかげが頂けれるのですよ。
私は昨日、ここから高芝さん、熊谷さん、二人たちと私とも四名、善導寺のお月次祭を拝ませてもらいました。皆さんもご承知のように、広々としておりますから、もう、しみじみ寒い。もう足のつまさきから冷え込んでまいります。お祭りを頂かせて頂きながら、親先生は昨日は、いつも教衣でお仕えになるのですけれども、昨日は、新しいお装束をつけてお仕えになりました。それで、勝彦と星野の若先生と三人で、二人も真っ白い装束をつけてでございましたが。
ほんとに親先生のお装束姿が立派であればあるほど、お広前が広ければ広いほど、私はあのお祭りを頂いてから、もうほんっとに心の底から、ほんっとに寒々としたものを感じたですが、皆さんどうだったでしょうかね。高芝さんやら、熊谷さんあたり。もうほんとに悲しいほど寒々としたもの、寒いと、冷たいという以外にですねえ、それを感じたんです。どういう中にあってもです、ねえ。
心の中に赤い暖炉が燃え続けておるとするならば、むしろ拝んでおる者も、いわば見ておる者も、暖かい、元気のでる、そういうようなものが、私は、伝わっていかなければ、本当はうそだと私は思うですけれどもね。そういうものを感じてか、感じずでか。十名余りのお参りがあってましたけれども、その三々五々というわけで、ここに二、三人、ここに何人と火鉢を囲んでから、お祭りはこちらであっておるんだけれども、こっち向いとる人もありゃ、こちちを向いとる人もあるといったような。
まあ椛目のものだけが正面に座って拝んでおるといったような、お祭りだった、なんですね。どうでもこりゃ私共、信者としてから、ほんとに考えなければいけないなあと。というような事をしみじみ、それこそ今日の寒さじゃないけれども、しみじみ感じましたね。[古傷を思い出させてしみじみ寒い 二人の話にもらい泣き]と、こりゃまあ粋などどいつの文句なんですけれどもね。私は、このしみじみという事。それがです、それとは反対にしみじみとして有難さが伝わっていくとか。
与えられるとか、感じれれるといったようなおかげを頂いていくのが信心だと思うんです。昨日、伊万里から自動車に分乗して、皆さんバス、電車を利用して参ってくる人もありゃ、自動車でお参りをしてくる人もある。ちょうどここで、期せずして一緒になられて、善導寺から帰りましたら、ここで皆さん待っておられました。もうお昼でございますから、お食事ども一緒に頂かせてもらいながら、あちらの池田さんというて、いつかここに伊万里から歩いて参ってきたご婦人の方があります。
あちらの話を聞かせて頂いたんですけれども、それこそしみじみとした話なんですけれども、もう、しみじみとして暖かさの伝わってくるようなお話でした。県庁にご主人が勤めておられて、ずいぶん裕福な生活をしておられたんでしょうけれどもね、たいへんそのお酒が好きなんです。ために、その、勧告を受けて、いわば、辞めさせられた訳なんですね。からというものは、しったいに勤めておられるですねえ。今まで県庁のお役人さんが、いわば、しったい人夫としてから、毎日勤めておられる。
奥さんはあちらの焼物の工場に出ておられる。子供さんが一人ある。この元旦祭に、みんなでああして団体参拝をなさいましたが、帰られてから新年宴会が竹内先生とこであった。もういい加減御神酒もまわってから、歌のひとつも出ろうかという時分に、池田さんの子供さんがひきつけを起こされた。小学校の六年生ぐらいでしょうかねえ、古賀先生。六年生ぐらいじゃったねえ。恵子さんてもうほんとに子供ながら、竹内先生がいつも「もう、感心いたします恵子さんには」ち言うてから話されるです。
もうどんな事があっても必ず、時間になると「お母さん、もう御祈念の時間ですよ」ち言うてから、誘うて竹内先生ところにお参りになるそうです。そして、もう眠うしてたまらんでも、御理解だけは頂いてから、ころっとやすまれるそうです。「もうあんたね、そんなに、毎晩遅いとじゃから、今夜な、ご無礼せんの」と言うと、「私、不思議に、お母さん、お参りしない時には学校で眠たい」ち言うて。と言うて、お母さんを誘うて、子供ながらにも御理解が。
もうそりゃあ、竹内先生の御理解を皆さん頂かれまして、しかも毎日同じなんですねえ。なんがし椛目に毎日毎日じゃない。そうではないですけれども、それをもう何回となし、繰り返し頂かれる。もうそれこそ懇切に理解づけてくださるから、子供でも年寄りでも分かるという訳ですね。皆さんそれが、竹内先生ところへ集まってから、信心のけいこをなさっておられる楽しみでもある訳なんですね。
その恵子さんが引きつけ、それでもう信者さん一同、宴会のだんじゃありませんとよねえ。みんなでもう「金光様、金光様」で、大変皆さんお世話くださり、椛目にはすぐ電話がかかってまいりました。それをお取次させて頂いて、それからちょっと折り合ったから、自宅のほうへ、山口さんという方が車を持っとられますから、そこへ送ってあげられた。そしてです、意識が出てから、お母さん、介抱しておられたら、お母さんに「お母さん、つがるの叔母様が一週間に一遍ずつ、椛目にお礼に出られるから。
これからはお母さん、一週間に一遍ずつでもよいから、叔母さんのお供をしてからお礼参拝してくれ」ち言うなさったち。「もう先生負うた子に教えられる。もうほんとにこの子供ばかりは、名前を恵子と付けとるが、ほんとに恵まれた子でございますち。私がぐちでも不足でも言おうものなら、もうお母さんて、お父さんがああであったおかげで、こげな有難い信心をさせて頂けるようになったんじゃないのちゅうて言う」と。
今日、もうそれを涙ながらに話しておられるのです。しみじみとした話ですけれども、これをどうでしょうかねえ、信心をぬきにして話したら、それこそしみじみ、まあさっきの唄の文句じゃないですけれどもねえ、その池田さんの話にしみじみ寒い、もらい泣きするようなお話なのですけれども、頂かせて頂いても有難涙、語るも有難涙。高芝さんも一緒に頂いておられましたんですけれども、ほんとにやっぱ同じ、同感じゃなかったろうかと思うんですよね。
信心ちゃ有難なあ。年寄りもなからなければ、子供もない。ほんとに信心を頂かせて頂くことに喜びを感じての信心。昨日の朝の御理解が済んで、皆さんがお届けされる。原さんがお届けに出てみえて、いつもお日届けがございますね。お月次祭のときだけは家族中のお届けがございますです。縁についておられます娘さんたちの上の事までやはりお届けがあります。その幾枚もの札をです、きれいにかえて、きれいな手の切れるような札をです、一枚一枚お初穂袋におさめてから。
名前を書かせて頂いて、神様にお供えさせて頂いた途端にです、原さんの心眼に頂かれたのがですねえ。もう、くしゃくしゃの百円札を頂かれた。しかもそのお初穂袋がです、何かこう、醤油か何かこぼれたようにです、赤いしみがいっておるような事であった。はっと思うて見せて頂いたら、やっぱりお初穂袋はきれいにしておる、お札はやっぱり手の切れるような百円札であったとこう。
「ほんとに先生、私共、こうしておかげを頂いておりますので、ね、せめてという気持ちで、こうやってお供えさせて頂いて、心を、いうなら込めてさせて頂いておるのが、どこにか何か不浄なことでも、心が、こんなふうなご心眼でも頂いた訳でしょうか」とお届けがありましたから、私はお初穂を受けて、そしてからここへお届けをさせて頂くために、ここへ置きましたら、それをまとめてですね、すっと紅白の水引をかけて、きちっとしたのを頂いたんですけどね。
〔それ〕で、御理解にです、ね。ほんとに神様、日々、家族中の者がおかげを頂いております。縁につけております子供たちも、こうしておかげを蒙っております。ほんと申しますなら、日々こうしてお礼ども申し上げるべきでございますけれども、まあそこまで届きませんから、せめて月次祭だけなりとも、こうやっておかげを頂かせて頂きますというお詫びやらお礼やらを込めて、ね。
せめてお月次祭だけなりともという、その思いをです、込められなければいけんのじゃないでしょうかね。まあ月次祭だから、家族中の者のお届けをする。これがもう習性になった。あたりまえになった。それでは更(さら)なものがない。ね。皆さんが、例えば、日々のお日届けでもそうなんです。ね、お参りをする。それもいわば、あたりまえのようにではなくて、それは中身が同じでありましてもです。
その思いの中に相済みませんとか、このような事ではとかいったものがてす。更に更に私は、そういう思いが込められなければならんのではないかと私は思うのです。成程なあ神様がですねもうしみじみとして氏子にね、ほんとの事を教えておられるという感じでしょう。それだからというて、中身が途端に多くなる訳でも少なくなる訳でもないのですけれども、せっかく氏子お供えをさせて頂くなら、ね、。
らな有難いというか、もったいないという思いを添えてのそれでなからなければならんのだと。しみじみと神様がそれを受けてくださるためにです、ね、しみじみと、そう教導しておられます。お互い自分の心の中に、どのような、これが寒中の霜の朝だろうか、雪の朝(あした)だろうかといったようなです、修行をなさっておられる方でも、自分の心の中にあかあかとしたね、信心の熱情が燃えたぎっておるとするならです。
寒々としたものを相手に感じさせるのではなくてです。しみじみ暖かいものをです、または有難いものを自分も感じ、また人にも感じてもらえれるような、いわばそういう暖かい雰囲気が生まれてくる。そういう暖かい雰囲気の中、心の中に、でなからなければ、良いものが、例えば、良い種を蒔きましても育つはずはない、と私はそんなに思うんですね。おかげ頂かなきゃなりません。